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救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

 数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年も救い主イエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行なった贖いの働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての過ちさえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、いと高き者の右側に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。人は虚しく彼を待つだけで、彼がすでに白い雲(彼の霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降臨し、今や終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとにいることに気づいていない。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と憐れみに満ちており、贖いに満ちた罪の捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。    

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行なっている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの民は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再現である。イエスだけが人類の贖い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖いの働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖いのための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖いの働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に贖われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、六千年の経営計画全体は贖いの時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖いと救いのためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

 終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行なったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを贖い、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを造った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行なう。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終わりの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖いの働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行ない、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行なってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行ない、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から贖われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度贖うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行なわれるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。



# by AlmightyGodMy | 2021-01-02 19:38 | 神の言葉

クリスチャンの証し「刻印」予告編

 
 李晨曦は子どものころから両親と一緒に集会に出席し、聖書を読んできました。1988年、彼女はわずか十三歳で集会の際に逮捕され、狭く暗い部屋に一日二晩閉じ込められます。それ以降、中国共産党は彼女への迫害を決して止めません。そして十七歳のとき、教会の兄弟姉妹に神の御言葉の本を送ったために再び逮捕されます。本の出所を吐かせようと、警察は彼女の目の前で父親にひどい暴行を加えた上、彼女に「政治犯」と書かれたボードをぶら下げて通りを歩かせます。1996年、警察はまたも李晨曦を逮捕しに来ます。彼女はやむを得ず故郷から逃げ、逃亡者の生活を始めます。共産党警察による嫌がらせと脅しを頻繁に受けた彼女の家族はみな、絶え間ない恐怖の中で暮らすことになります。母親は長期にわたるストレスと不安に耐えられず精神耗弱に陥り、以前から健康問題に苦しんできた父親も、警察による残酷な暴行のせいでさらに体調が悪化します。かつて幸せだった家族はかくして引き裂かれます。逃走中、李晨曦は兄弟姉妹に加わって全国に福音を広めます。彼らは共産党による恐怖の支配に苦しみ、何度も取り締まりを受け逮捕されます。兄弟姉妹の中には逮捕後、残虐な拷問を受ける者もいます。暴行を受けて命を落とした者もいれば、十年以上の懲役刑を宣告された者もいるのです。2012年末、李晨曦は福音を広めていた際に再び逮捕され、四ヵ月にわたる尋問、自白を引き出す試み、そして洗脳を経験するのです。


# by AlmightyGodMy | 2021-01-01 15:14 | クリスチャンの証し

神の加護

 神は言われます。全能神は言われます。「人間は、自分で自分の性質を変化させることができない。人々は神の言葉による裁き、刑罰、そして辛い精錬を受けるか、あるいは神の言葉による取り扱いと懲らしめ、刈り込みを受けなければならない。その後初めて、彼らは神への従順と献身を実現することができ、神を欺こうとしたり、いい加減に神に対応したりしなくなる。神の言葉による精錬のもとで、人間の性質は変化するのである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受ける者のみが、見境なく行動しなくなり、平静沈着となる。最も重要な点は、神の現在の言葉と働きに従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を捨てて、意図的に従うことができる、ということである」(「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」『言葉は肉において現れる』)。以前、私はこの神の御言葉を読みました。「人間は、自分で自分の性質を変化させることができない。人々は神の言葉による裁き、刑罰、そして辛い精錬を受けるか、あるいは神の言葉による取り扱いと懲らしめ、刈り込みを受けなければならない。その後初めて、彼らは神への従順と献身を実現することができ、神を欺こうとしたり、いい加減に神に対応したりしなくなる」そのとき、人が自分の性質を変えられないのはなぜなのか、私にはよくわかりませんでした。私は神の御言葉を毎日真剣に読み、いつも時間通りに集会に出て教会から割り当てられた本分にはすべて従いました。罪を犯さず立派に本分を尽くしていれば長年神を信じ、神の御言葉を沢山読んできた私の堕落した性質はきっと変わると思っていました。それなのに、神による裁き、刑罰、刈り込み、そして取り扱いを受ける必要があるのはなぜでしょう? 厳しい刈り込みと取り扱いを何度か受けて自己反省するまで私は自分が読んだ神の御言葉を本当に理解しておらずそのとき初めて、自分がサタンにどれほど深く堕落させられているかがわかり傲慢で自惚れたサタン的本性が自分に深く根ざしていることそして神の裁き、刑罰、刈り込み、および取り扱いを受けなければ、自分を知ることは決してなくましてや清められたり変わったりすることもないのだと理解しました。

 2016年の初めごろ、私は教会指導者の本分を尽くしていました。最初に始めたときは、自分には欠けているものが本当に多いと思い本分を尽くす中で絶えず神に祈り、すがっていました。わからない問題に出会ったときは同労者を探して交わり他の人の提案を受け入れることができたのです。私はとても謙虚でした。実践し始めてから半年以上経つと、いくつかの原則を把握しまた真理について交わることで、兄弟姉妹の困難を解消してあげることができました。私は徐々に得意になり「私はこれまで教会指導者になったことがないけれど優れた素質があって神の御言葉をすぐに理解できる。もっと実践すれば、さらによくなるはず」その後、私は重要な本分を任され、ますます増長しました。同労者の中で一番若く、神を信じて日が浅いのにこれほど重要なことを引き受けられる自分は、本当に才能ある人間に違いないと思ったのです。しばらくのあいだ、私は胸を張って歩き自分はみんなの中で最も重要な本分を任されたのだと、誰も並ぶ者がいないかのように感じていました。時間が経つにつれ、私はますます傲慢になりました。教会の働きを話し合うとき同労者が提案をしても私は自分の意見に固執しました。「本当にそれでうまくいくの? 私はこのようなことを前に扱ったことがあるのだから、私のほうが原則をよりよく理解しているんじゃない? この件の扱いについて、私は一番いい方法を知っている」一緒に働いていた姉妹がささいなことをあまりに深刻に考えると私は我慢できなくなりこんなに単純なことは簡単に処理できるのだから何度も交わって探求する必要などないと思いました。同労者の集まりで彼女の意見が他の兄弟姉妹に採用されないことがあり私はそれを見て彼女を見下すようになりました。「あなたは私よりも長く指導者を務めているけれど私にかなうわけがない」ある時、私がぐずぐずと本分を尽くしていて進み具合が遅いと、その姉妹が言いました。私はそれを受け入れられずに反論しました。「あなたの交わりは受け入れられません。あなたもこの働きに関わっているのでしょう? あなたにも責任があるんじゃないですか? どうして自分を認識せず、すべてを私に押しつけられるのですか?」そこまで言って立ち上がり、その場をあとにしました。その後、指導者は私の振る舞いを知り、あなたはあまりに傲慢だと言って私を取り扱いました。私は口ではそれを認め「私はあまりに傲慢で、真理を受け入れていません」と言いましたが、反省することも、自分の本性と本質を認識しようとすることもなく本分を尽くしながらいつも偉そうに振る舞い、自分のやり方で物事を行なっていました。当時の同労者の中に素質に欠け、実践的な働きができないせいで解任された人がいました。しかし私は解任されることを心配していませんでした。「今、私はこの教会における本物の人材だし、いくつもの仕事を担当している。私がいなければ、代わりになる人をすぐに見つけられるかしら?」非常識なほど傲慢になりつつあったまさにそのとき、私はとても厳しい刈り込みと取り扱いを受けました。

 あるとき兄弟姉妹が書いた経験と証しの記事を読み、いささか表面的だと感じました。そして誰とも相談することなく、それらを却下したのです。それを知った指導者は激しく怒り私を問い詰めました。「こんなによい記事をなぜ却下したんだ? 一度でも同労者と話し合ったのか?」私は言いました。「いいえ、そのときはいくぶん表面的だと感じたのです」そう言うやいなや、指導者は私を厳しく取り扱いました。「これらの記事は多少表面的かもしれないが彼らの経験は本物だし、実際の認識を示している。人のためになるものだ。それは素晴らしい経験と証しの記事なんだ。君は本分を尽くす中で真理を求めず、いい加減で傲慢だ。真理を理解しておらず、他の人と話し合うこともない。まったく素晴らしい記事を放り投げ、神の働きを経験した証しを埋もれさせるなんて馬鹿げたことじゃないか? それはサタンのすることじゃないか? 君は邪魔をしているだけなんだ!」以前に刈り込みと取り扱いを受けたこともありますがここまで厳しくはありませんでした。「馬鹿げた」「サタン」「邪魔をしている」「いい加減で傲慢」といった言葉が頭の中でいつまでも鳴り響き涙を抑えることができませんでした。息をするのも難しかったほどです。それなのに、自分は不当に扱われているとまだ思っていました。そのとき、同労者と話し合わなかったのは事実だけどあとで話したでしょう? 神は私たちの心の奥底を本当にご覧になります。私が言い訳を考えていると、指導者が厳しい口調で続けました。「君は独断専行している。わからないことがあれば誰かに訊いたり、相談したりできるはずだ。しかし君はそれさえしない。あまりに傲慢で、神を畏れる心がまったくない!」このとき、私は渋々認めました。本当に神を畏れる心が少しでもあれば行動する前に探求していたはず。しかし私は他人の意見を求めず、好きなように物事を行なうだけでした。本当に傲慢で独善的だったのです。

 指導者は私に関する調査を行ない、私があまりに傲慢で、真理を理解しておらずこうした重要な本分にふさわしくないことを突き止め、私を解任しました。私はすっかり消極的な状態に落ち込みました。指導者はこの件に関して私をすっかり見抜き真理を追求する人ではなく、信じられないほど傲慢で育成する価値もないと判断したのだと思いました自分には神の家での見込みがもうないと考えてますます消極的になり、誤解で一杯になりました。自分がサタンになったかのように感じたのです。私がどうして救っていただけるでしょう? 私が正しくない人間だと兄弟姉妹は絶対に考えているはず。それなら、このまま追求を続けて何の得があるだろうと思いました。そのころ私は渋々ながら、本分を尽くしているように見せていましたが、真理を追求したいとは思っていませんでした。責任者が神の御心について何度も私と交わってくれたのですが、私は自分を改めませんでした。その後、責任者は私を刈り込んで取り扱い「あなたは本分を尽くす中でわざと頑なになり、いつも消極的で、神に反抗しているし変化を起こさなければ遅かれ早かれ神に淘汰される」と言いました。私はこれを聞いて恐ろしくなり、状況の深刻さに気づきました。そこでただちに神の御前に出て祈り、探し求め、自分を反省しました。半年以上、刈り込まれて取り扱われたことを正しく扱えなかったのはなぜなのか? 反省する中で、私はこの神の御言葉を読みました。「刈り込みと取り扱いを受けて消極的になる人がいます。その人は本分を尽くす活力をすべて失い、やがて忠誠心も失います。それはなぜですか。自分の行為の本質に気づいていないのがその原因の一つであり、それが刈り込みと取り扱いを受け入れられないことにつながるのです。また刈り込みと取り扱いの意義は何かをいまだに理解していないことも原因の一つです。人はみな、刈り込みと取り扱いを受けることは、自分の運命が定まったという意味だと信じています。結果として、神への忠誠がいくらかあれば、自分が刈り込みと取り扱いを受けるはずはないと誤って信じ、取り扱いを受けると、それは神の愛と義を示すものではないと考えるのです。そうした誤解のせいで、多くの人があえて神に『忠実』でなくなっています。実際のところ、それは結局、その人たちが過度に不実だからです。彼らは苦難を受けることを望まず、簡単に祝福を得ることばかり望みます。人は神の義を認識していません。それは、神が義なることを一切したことがないという意味でも、義なることを一切していないという意味でもありません。単に、神の行なうことは義であると、人が信じていないということです。人間の目から見ると、神の働きが人の願望と一致しなかったり、人の期待にそぐわなかったりすれば、神が義であるはずはありません。しかし人は、自分の行動が不適切で真理と一致していないことを決して知らず、また自分の行動が神に抵抗していることにもまったく気づいていません」(『キリストの言葉の記録』より引用)。神の御言葉にあるこの暴きを読んだあと、私はようやく理解しました。自分がここまで消極的だったのはあまりに傲慢で自惚れていて自分の振る舞いの性質を認識していなかったからなのだと。自分は間違いを犯しただけなのに、このように取り扱われるのはあんまりだと思ったのです。私はそのせいで消極的な状態の中にはまり、神を誤解し警戒していました。神の御言葉を読みながら、私は自問しました。自分がここまで厳しい刈り込みと取り扱いを受けたのは本当にたった一つの間違いを犯したからなのか? 神の家が人をどう取り扱うかには原則があります。それはどれも、人の本性と本質、そしてその人のいつもの振る舞いを基にしています。指導者は無闇に私を取り扱ったのではありません。それなら、私の中にいったいどのような問題があってこれほど厳しい刈り込みと取り扱いを受けることになったのでしょう?

 その後、私はこの神の御言葉を読みました。「自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい! 自分の邪悪な行ないを解消するには、まず本性の問題を解決しなければなりません。性質の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能でしょう」(「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を得られる」『キリストの言葉の記録』)。また説教でも多少の才能や素質があるとき、その人は他人を見下すと述べられています。他人に耳を傾けたがらず、他の誰より自分のほうが優れていると考えるのです。そのような人は傲慢で、自惚れていて、独善的です。信者になって以来、自分が真理の追求に集中せず自分の素質と傲慢な性質に頼って本分を尽くしてきたことを振り返りました。自分は話がうまく本分を尽くす中で小さな成果を挙げたのだから、指導者は私を本当に高く評価していると思いました。自分は他の人より優秀に働けると思い込んでいたので一緒に働く兄弟姉妹を軽んじていました。自分のやり方で物事を行なうと言い張り、傲慢な性質がますます大きくなりました。その後、私は教会の働きに対し、本当にだらしない態度をとりました。真理の原則を求めることも、他の人を探して交わることもなく自分の好きなように勝手に物事を行ない、結局教会の働きを妨げました。自分は優れた素質の持ち主で、多少の真理を理解しているといつも思っていました。しかし暴かれて初めて、自分が理解していたのはわずかな教義に過ぎず真理の現実がほんの少しもなく、真理の交わりをして実際の問題を解決することもできないのだとようやくわかりました。それにもかかわらず、私は依然として信じられないほど傲慢で、何事も独断で行動しました。すべての理知を失い、神を見失うほど傲慢だったのです。指導者が来て私の働きを見直して初めて、問題が明らかになりました。そして、自分がそれまでどのように本分を尽くしてきたかを考えました。兄弟姉妹を助けたり、彼らに益をもたらしたりしなかっただけでなく彼らを抑え込む数多くの堕落した性質を表わしていました。私は本分を尽くしておらず、単に悪事を行なっていたのです! それを考えれば考えるほど不安を覚えました。傲慢さから行動するときその人が神に抵抗して悪事を行なうのは避けられないとわかったのです。自分より素質が劣っているように見えながら本分を尽くすときには慎重で注意深い兄弟姉妹のことを考えました。彼らはいかに真理を求め、他の人の意見を受け入れるべきかを知っていましたが一方の私はあまりに傲慢で、自己認識がまったくないほどでした。いかに真理を求めるべきかについて、その意識が一切なかったのです。反省すればするほど、自分の道は真理を追い求める道ではないと感じるようになりました。私はとても傲慢で神のことなど眼中になかったので刈り込みと取り扱いを受け、自分の本分から外されたのは、実際には神が私を守り、救ってくださっていたのです。それがなければ、どれほど多くの悪事をさらになしていたか、誰にもわかりません。引き返せないところまで来て追放されることさえあったかもしれませんそうなれば後悔しても手遅れです。神の善意を理解した私は後悔で一杯になりました。自分は半年以上にわたって神を誤解して責め続け、消極的になって働きを怠けていたのだと思いました。私はどうしようもない人間だったのです! それからは、自分の本分をきちんと尽くし、過去の過ちを償うことだけを望みました。

 半年後、私はチームリーダーに選ばれました。そのとき、自分の傲慢な本性のせいで再び躓き、失敗を犯すのではないかと不安でした。本分を尽くす中で問題が起きたときはとても用心し一緒に働く兄弟姉妹と頻繁に話し合い、交わりを行なうとともに真理を求めて教会内の問題を解決しました。そのように本分を尽くしていると、はるかに安心できました。そして兄弟姉妹ともずっと仲よく付き合うことができました。数ヵ月後私は本分を尽くす中で多少の成功を収め、再び密かに喜びを感じ始めました。自分は本物の人材に違いないどんな本分を尽くしていようと、物事をすぐに処理できると考えたのです。やがて、私の傲慢な性質が再び頭をもたげました。兄弟姉妹が問題を抱え、それについて指導者と探求しようとしたとき、私は彼らに我慢できなくなり「それなら前に探求しなかった? どうしてもっと探求する必要があるの? 私は原則を知っているんだから、私の交わりで十分なはずよ」と思いました。そして考え直すことなく、自分の理解を兄弟姉妹に伝え、彼らがそれを受け入れるよう望みました。しかし彼らは不安を覚え、指導者と一緒にその件を探求しました。その後、指導者が私たちと一緒に実践の原則について交わったのですがそれは私が以前に認識していたものと違っていました。私は驚き、こう思いました。「探求してよかった。さもないと私たちの本分が影響を受けるところだった」しかしその後私は反省することも、自己認識しようとすることもありませんでした。傲慢で理知をもたないままだったのです。兄弟姉妹が尽くす本分に間違いを見つけると横柄に叱ってこう考えました。「こんな些細なこともきちんとできないなら、あなたたちは何ができるの? どうせ、それに心を捧げていなかったんでしょう」やがて他の人たちは私に抑え込まれるようになり、距離を置き始めました。私に抑え込まれるあまり、もう本分を尽くしたくないと言う姉妹さえいました。私は自分が間違っていることを知りながら何かがあるたび、自分の傲慢な性質を表わさずにはいられませんでした。以前に躓き、失敗したことを考えると、かすかな恐怖を感じましたがそのときは真理を求めて問題を解決しようとはしませんでした。

 その後、私は自分の独断で、ある姉妹を重要な本分につけることにしました。するとある兄弟から彼女は誠実でなく、重要な本分には不向きだと注意されたのです。私は思いました。「彼女には多少問題があるけれど、あなたが言うほどひどくはない。堕落や欠点のない人なんているの?」私はこの兄弟の意見をまったく真剣に考慮せずその姉妹を探して交わりを行ない、彼女の問題点を注意するだけでした。ところが、彼女には裏表があり、投げやりに本分を尽くしていたことを知って、私はすっかり驚きました。そのせいで神の家の働きが深刻な害を被ったのです。これを知った指導者は非常に厳しく私を取り扱い、こう言いました。「君は自分のしたいことをするばかりで、誠実でない人間を昇格させた。兄弟が注意したのに、君は耳を傾けることも、自分で調べることもしなかった。そして今、本当に深刻な結果になり、こんなに大きな混乱を引き起こした。本分を尽くすにあたって君に責任感がなかったからだ。君は真理を理解しておらず、傲慢だ。解任しなければならない!」これほど厳しい刈り込みと取り扱いを受け、私は針のむしろに座っているようでした。こんなに多くの兄弟姉妹の前で自分の本分から外されそれに指導者は、私がどのような混乱を引き起こしたか、そして私を解任しなければならないことを強調した。自分はもう終わりで、きっと淘汰される。これ以上追い求めても無駄だと思いました。解任された私はすっかり消極的になりました。毎晩ベッドの中で、これまでのことを振り返っては泣いていました。しばらくは恥ずかしさのあまり、誰とも会うことができませんでした。兄弟姉妹がみんな幸せそうに本分を尽くしているのを見て自分は傲慢な本性のせいで彼らとまったく違うと思いました。誰にも相談せず、またアドバイスを受け入れることなく、私は誠実でない人間を昇格させ教会の働きをひどく混乱させてしまった。それなのに、どうして神に救っていただけるだろう? これほどの若さで自分の信仰の道が終わりを迎えるとは想像もしていませんでした。そのうえ刈り込みと取り扱いは淘汰でなく救いだと神はおっしゃったけれど、自分には当てはまらないとさえ考え始めました。私の心は誤解で一杯でした。あるとき、指導者が私たちと働きについて交わるために来たのですが私は隅に隠れました。指導者が私の名前を呼び、最近どんな進化を遂げたかと訊いたとき、私はすっかり驚きました。すると指導者は、刈り込みと取り扱いを受けて消極的になったかと尋ね私と真剣に交わり、こう忠告してくれました。「君はまだ若い。真理を追い求め、性質の変化に集中すべきだ」指導者によるこの心からの言葉を聞き、私はとても慰められ、また励まされ涙を抑えることができませんでした。私はとても傲慢で、自惚れていて、本分を尽くす際に無責任でいい加減でした。そうして教会の働きに深刻な害を与えてしまったのです。指導者が私を解任し、刈り込みと取り扱いを行なったのは正しいことだったのにそのうえ私を励ましてくれるとは想像もしませんでした。私は神のご慈悲に心から感謝ました。その夜、私は涙ながらに神に祈り、心から本当に自分を反省し、真理を求めて傲慢な性質を解消しますと誓いました。

 その後、私は神の御言葉のこの一節を読みました。「傲慢さは人間の堕落した性質の根源です。傲慢になればなるほど、その人は神に抵抗しがちになりますこの問題はどれほど深刻でしょうか傲慢な性質の持ち、主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえします表面上は神を信じて神に従っているように見えるものの、まったく神を神として扱っていない人がいます。そのような人は真理を自分のものにしていると絶えず感じ、自分を高く評価していますこれが傲慢な性質の本質と根源であり、それはサタンに由来しますゆえに、傲慢さの問題は解決されなければなりません誰も眼中にないと思うのは些細な問題で傲慢な性質のせいで神、神の支配、神の采配に従わないことが重要な問題なのですこのような人は他人の支配を巡って絶えず神と競い合いますこの種の人は神を少しも畏れず神を愛することや神に従うことについては言うまでもありません傲慢で自惚れている人、とりわけ自分の理知を失うほど傲慢な人は、神への信仰において神に服従することができず、自分を称揚して自分の証しさえします。このような人は神に最も抵抗します。神を畏れるところに至りたければ、まずは自分の傲慢な性質を解消しなければなりません。自分の傲慢な性質を徹底的に解消すればするほど、あなたはますます神を畏れる心をもち、そのとき初めて神に服従し、真理を得て神を認識することができるのです」(神の交わりより)。神の御言葉の暴きを通じて初めて自分の傲慢な本性をもとに行動することは単にわずかな堕落を示したという問題ではなく私が他人を、そして神さえもまったく無視したおもな原因だったことがわかりました。そのせいで、神に反抗し、抵抗せずにはいられなくなったのです。本分を尽くしていたときのことを振り返ると、自分は聡明な人間で、優れた素質の持ち主だといつも思っていました。そのため、自分の才能と素質に頼って本分を尽くしたのです。私は自分にとても自信があり、神に祈ることも、真理の原則を求めることもめったにしないほどでした。心の中に神の居場所がまったくなかったのです。本分が成果を挙げていないときはきちんと振る舞いましたが少しばかり原則を理解してわずかな成果を挙げたとたん、それを自分の資本として利用しました。自分がすることはどれも正しく、自分は何でもでき、人や状況をきちんと評価できると思い込みますます傲慢になり、自惚れ、独善的になって何においても我が道を行き、独断専行していました。指導者と一緒に真理を求める兄弟姉妹を邪魔しあたかも真理であるかのように自分の考えを押しつけ彼らがそれを受け入れ、従うようにすることさえしました。これらの事実は、自分が傲慢な本性に従って行動していたこと兄弟姉妹を抑え込んで害を与える以外に何もしなかったことそして教会の働きをひどく乱したことを私に示しました。私はサタンの手先を演じてさえいたのです。指導者が私を取り扱い、これは深刻な混乱だと言ったのはまったく正しいことでした。私が本分から外されたのは、完全に神の義だったのです。そのような傲慢な本性がいかに恐ろしく、致命的であるかがようやくわかりました。それを解消しないままにしていれば、私はいつでも悪事を行ない、神に反抗していたでしょう。そして神の家の働きを妨げ、神の性質に背き、淘汰され、懲罰を受けていたはずです。私が解任されたあと、本分におけるその他の問題が明るみに出ました。兄弟姉妹の非難と、働きの中で露わになった問題を突きつけられ私は後悔と自責の念を大いに感じ、心から自分を憎みました。私はなぜこれほど傲慢だったのでしょうか? 自分は才能の持ち主で、自分がすることはどれも正しいと常に思っていたのに神に満足していただけることを少しでもしたでしょうか? 私が尽くしていた本分は完全に滅茶苦茶で、私は邪魔ばかりしていました。自分に少しでも神を畏れる心があり、もっと祈って求めていたらあるいは他の人たちと交わって話し合い、もう少し注意深くしていれば神に反抗することをここまで多くすることはなかったはずです。

 その後、自分の傲慢な本性を解消しようとする中で、私は神の御言葉と交わりの文章をいくつか読みました。「人間は、自分で自分の性質を変化させることができない。人々は神の言葉による裁き、刑罰、そして辛い精錬を受けるか、あるいは神の言葉による取り扱いと懲らしめ、刈り込みを受けなければならない。その後初めて、彼らは神への従順と献身を実現することができ、神を欺こうとしたり、いい加減に神に対応したりしなくなる。神の言葉による精錬のもとで、人間の性質は変化するのである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受ける者のみが、見境なく行動しなくなり、平静沈着となる。最も重要な点は、神の現在の言葉と業に従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を捨てて、意図的に従うことができる、ということである」(「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」『言葉は肉において現れる』)。この一節を読み返し人の傲慢な本性を解消する唯一の道は神による裁き、刑罰、刈り込み、そして取り扱いを受け入れることだと実感しています。サタンによる私たちの堕落はとても深いので神の御言葉を読んで自己反省するだけなら私たちの自己認識は表面的なものであり、堕落した性質もたぶん変わりません。神が何度も私を暴き、刈り込み、取り扱ってくださらなければ私は依然として自信過剰で、自分は本当に優れていると思い込んでいたでしょう。自分を知ることなどまったくなかったはずです。自分がいかに傲慢かも、自分のサタン的性質がいかに深刻かも、決してわからなかったに違いありません。いま、自分がしたあらゆることを振り返ると、恥ずかしさと後悔で一杯になります。考えるのも嫌で、顔を上げることすらできません。けれど、私が自分の傲慢な本性について少しばかり認識しどこでつまずき、失敗しそうなのかを知ることができたのはまさにそうした苦しい教訓のおかげだったのです。それはまた、神を畏れる心を私に与えてくれました。さらに、私には真理の現実も、そして本分を尽くす際に真理を求める心もまったくないことがわかりました。私はわがままで、自分勝手で、邪魔ばかりしていました。素質こそ平均的であるものの、良心的に本分を尽くしていた兄弟姉妹に比べ私は取るに足らない存在でした。私の傲慢さに根拠などなかったのです。こうしたことを認識した私は本分を尽くす際により謙虚になり、もう自信過剰になることもありませんでした。意識的に自分を脇にのけ、否定することを実践したのです。そしてさらに真理の原則を求め、兄弟姉妹の言うことに耳を傾けましたみんなで話し合うことで、教会のどんな問題でも解決するようになりました。再び傲慢さを見せたり、本分を尽くすにあたり原則に反したりすることもありますがそのときは自分を脇にのけることを実践し、刈り込みと取り扱い、そして他の人の指導と手助けを受け入れます。やがて、そのように実践することは本当に有益だと感じるようになりました。真理に関する私の理解は浅く、多くの物事について洞察力が欠けているので兄弟姉妹と一緒に働き、みんなの見方を合わせることで物事をより理解できるようになりました。そのように本分を尽くすことで、知らぬ間に神の加護をいただいていたのです。もはや大きな間違いを犯したり、大きな問題を抱えたりすることもなく兄弟姉妹の監督のもと私の傲慢な本性はすこしばかり抑えられました。これを実践することで、私は安心感と穏やかさを得ました。そして徐々に、傲慢さから行動することが減っていきました。あるとき、一緒に働く姉妹がこう言いました。「あなたと知り合って2年近く経つけど以前は傲慢で、他の人はいつもあなたに抑え込まれていたのにいまは本当に変わったわ」そのとき、私は泣きそうになりました。自分は信じられないほど傲慢でそのわずかな変化も容易ではなかったのです。過去数年を振り返ると二度にわたる忘れがたい刈り込みと取り扱いは私にとって最も助けになり、また有益なことでした。それを経験していなければいまでも正常な人間性をもたず、神のことをまったく考えていないはずです。危険な断崖に立ち、いつでも神に反抗していたはずです。いまでは、刈り込みと取り扱いを受けたことは、私に対する神の加護と救いであると、はっきりわかっています。



# by AlmightyGodMy | 2020-12-31 08:05 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

神の御言葉「聖霊の働きとサタンの働き」


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# by AlmightyGodMy | 2020-12-30 07:25 | 神の御言葉

死の試練の中で

 全能神は言われます。「神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである」(「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」『言葉は肉において現れる』)。神の御言葉には本当に感動し、20年以上前、死の試練の中で体験した忘れられない出来事について考えさせられる。神の裁きと刑罰は、人間に対する愛であり、救いである、ということに実に理解するようになった。神の御言葉は、どんなに厳しく、当惑するものであっても、それは、私たちを清め、変えるためでしかない。

 1992年2月のこと。効力者の試練の後、神は私たちを、神の国の時代の民として引き上げ、要求を提示した。神の御言葉を読むこと、それらを実行に移すことに専念し、神を知ろうとすること、試練を通して神の証しをすること、神の国の民の基準にできるだけ早く到達すること。当時、神は、たびたび、「わたしの家の民」や「わたしの国の民」という言葉を使われた。これらの御言葉を聞くと、いつも、神は私たちを家族として見ておられるということを感じさせてくれる。そんな温かみと励ましの感覚をもらい、私は、神の民の仲間入りをすべく、その基準を追求し始めた。神の御言葉を読んで祈り、その御言葉から神の御旨を熟考した。できる限りの本分を尽くし、生涯、神に従うことを決心した。22歳だった。同い年の男たちは、ほとんど皆、すでに妻子がいた。信仰していない私の家族は、私に妻を見つけようとしたが、全て断った。

  私は、『神の国の讃歌』を歌うのがとても好きだった。特にこの歌が。「神の国の礼砲が鳴り響くと、サタンの国はよろめき倒れ、神の国の賛歌がとどろく中で滅び、二度と立ち上がることはない。地上の誰があえて立ち上がり抵抗するというのか。地に降り立つ神は焼き尽くす火をもたらし、怒りをもたらし、ありとあらゆる災難をもたらす。地上の国々はいまや神の国である」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。神の国が、地上にはっきり現れ、神のなせる働きが完了し、大災害が起こり、神に反対する者たちがみな滅びる様子が思い浮かんだ。反対に、神に従う私たちは、生き延び、神の国へ導かれ、永遠に続く祝福を享受することができる。このように考えるのはとても素晴らしいことだった。当時、私は全能神の御名を受け入れ、引き上げられて神の国の民の仲間入りをすることは、この人生で、神の国に入ることが確定されたことを意味し、誰もそれを奪えないと考えていた。私は非常に胸を高鳴らせていた。私たちの霊がよみがえり、喜びで満ちていた。私たちは神のために、たゆむことなく自分の全てを捧げた。

 しかし、神は義であり、聖なる存在だ。神は、私たちの心を見抜く。神は、私たちが心に抱く、観念、想像、途方もない欲求をご存知だ。私たちが、まもなく神の国に入り、その恩恵にふけることができるだろうという希望に満たされた頃、4月後半に神は、私たちを死の試練へと導く新たな御言葉を発せられた。

 ある日、教会の指導者が集会を開き、神の御言葉を読んだ。「人が夢見る間、わたしは世界の国々を旅して、人の中にわたしの手にある『死の臭い』を振りかける。人々はすぐに生命力を失い、人生の次の段階に入る。人間の中に生けし者を見ることはできなくなり、屍があちこちに散らばって、生命力に満たされたものは直ちに跡形もなく消え去り、屍の息の詰まるような臭いが地に充満する。……今日、ここではすべての人の屍が無秩序に横たわる。わたしは人知れずわたしの手の内にある疫病を放つ。人の体は腐り、肉は頭からつま先まで跡形もなく朽ち落ち、わたしは人から遠く離れたところへ行く。わたしが再び人と集うことは決してなく、人の内に来ることも決してない。わたしの経営全ての最後の段階が終わりを迎え、わたしが再び人間を創造することはなく、人を再び心に留めることもないからである。わたしの口から出た言葉を読んだ後、人はすべて、死にたくないがゆえに希望を失う。しかし、『生き返る』ために『死』なない人があろうか。わたしには人を生き返らせる不思議な力はないとわたしが人に言うとき、彼らは苦痛の中で泣き叫ぶ。実に、わたしは創造主ではあれども、人を死なせる力しか持たず、人を生き返らせる力はない。これについては、人に詫びを言おう。それゆえに、わたしは人に『わたしはあなたに対して支払えない負債を負う』と前もって伝えたが、人はわたしが単に礼儀正しいだけだと考えた。今日、その事実の到来において、わたしは今なおこう言う。わたしが話すとき、わたしは真実に背かない。人は観念の中で、わたしの話し方は多すぎると思い込んでいるため、いつも他の何かを望みながらわたしが彼らに与える言葉にしがみつく。これは、人の誤った動機ではなかろうか。人がわたしを心から愛してはいないとわたしがあえて『はっきりと』述べるのは、これらの状況ゆえである。わたしは良心に背を向けず、真実をゆがめることもない。わたしが人を理想の地に連れて行くことはないからだ。そしてついにわたしの業が終わる時、わたしは人を死の地へと導くであろう」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第四十章」)。なかでもこの御言葉、「わたしは創造主ではあれども、人を死なせる力しか持たず、人を生き返らせる力はない」の部分に、私はとても困惑した。「なぜ神は、そのようなことをおっしゃるのだ?」と。「人間の生と死は、神の御手に委ねられている。なぜ神は、人間を生き返らせる『力』がないとおっしゃるのだ? 私たち信者は、やはり最後には本当に死ぬことになるのか? 私たちは、神の国の民なのに、なぜ死ぬのだ? そんなことはないはずだ! しかし、神が私たちをからかうはずはない。神は、はっきりとおっしゃられた。『わたしの業が終わる時、わたしは人を死の地へと導くであろう』。それは、私たちがやがて死に直面するのを意味しているのではないか? これは一体どういうことだ?」私は、神がなぜそのようなことをおっしゃるのか、理解ができなかった。私の周りにいた他の兄弟姉妹たちも、途方にくれている様子だった。それから、教会の指導者が交わりをした。「私たちの肉は、サタンによって深く堕落させられている。サタン的性質に満ちている。横柄、虚偽、利己主義、貪欲、さらに、常に嘘をつき、不正をする。神を信じ、神のために自分を費やすが、神の御言葉を実行に移せない。試練と苦難がやってきた時でさえ、私たちは神を裁き、とがめる。これは、私たちの肉がサタンのもので、神に抵抗していることを表している。神の性質は、義であり、聖であり、犯すことができない。サタンに属する人間を、どうして神の国に入れられるだろうか? 神のなせる働きが完了する時、大災害が起こる。信者であっても、真理を得ていなければ、いのちの性質が変わっていなければ、やはり死ぬのだ」。

 指導者からのこの交わりを聞いていると、感情が溢れてきて、どう感じたら良いのかわからなかった。天が突然大きな音を立てて崩れ落ちたような衝撃を受けた。困惑と憤りが心に充満し、こう思った。「最後の世代であるなら、最も祝福されているのではないか? 神は私たちを神の国の時代の民として引き上げた。私たちは神の国の柱だ。どうして最後の最後に死ぬことができよう? 私は神に従うために、青春と結婚への希望を捨てた。神のために駆け回り、自分を費やし、多くの苦難を耐えた。中国共産党に逮捕され、迫害され、未信者たちからは嘲笑われ、中傷を受けた。どうして最後の最後に死ななければならないのだ? 私の苦しみは全て無駄だったのか?」それを考えると、非常に胸が痛くなった。身体に重みがずっしりとのしかかるのを感じ、息ができないほどだった。私の周りの人たちも皆同じように感じていることに気付いた。静かに泣いている人もいた。手で顔を覆って泣き叫んでる人もいた。集会の後、私の母はため息まじりに言った。「私は60歳を過ぎているし、死を受け入れている。でもあなたはまだ若い。あなたの人生は始まったばかり……」母がそんなふうに言うのを聞いて、私は余計動転し、涙を堪えられなかった。その夜はベッドで寝返りを繰り返し、一睡もできなかった。理解できなかった。私は神のために熱心に自分の全てを費やし、神に従うために全てを諦めてきた。それなのに、なぜ大災害で死ななければならないのだ? その事実を受け入れられず、私は神の御言葉に目を通し始めた。手がかりが見つかること、結果が変わることを願いながら。しかし、求めている答えは見つからなかった。唖然として、こう思った。「神は本当に私たちを咎め、死は確定したかのように見える。誰もそれを変えられない。天が定めたことなのだ」。

 それからの数日間、気持ちがとても沈んでいた。言葉を発してもほとんど聞き取れないほどしか声が出ず、何もする気が起きなかった。私はいつも長時間、神の御言葉を書き写したものだった。手が痛くなっても、気にならなかった。兄弟姉妹に、神の新たな発言をできるだけ早く読んでもらいたいと思っていた。だが、そのような責任感は、もう消え失せてしまった。私の焼けつくような熱情は、突然冷めてしまった。神の御言葉を書き写していると、こう思った。「私はまだ若く、天国の祝福を享受していません。このまま死にたくはありません!」そう考えると、泣けてきた。当時の私の心は重く、胸をナイフで突き刺されたような痛みを感じていた。世界におもしろみがなくなった。大災害がすぐにでも来るかのように感じ、いつ死ぬのかわからなかった。世界が終わったように感じられた。

 神の御言葉を読むと、いくらか自己認識を得られた。それからゆっくり、時間が経つにつれて自由を感じられた。こんな神の御言葉を読んだ。「今日、神の国の門へと進む時になると、人々は皆、力強く前進を開始する。――しかし、人々が門の前に着くと、わたしは門を閉める。わたしは人々を締め出して、入門証を見せるよう人々に要求するのだ。このような奇妙な行動は人々の予想外であり、皆仰天する。今までいつも大きく開いていた門が、なぜ今日突然ぴしゃりと固く閉ざされるのか。人々は足踏みをしながら歩き回る。彼らは想像する。ごまかして門の中に入れるのではないかと。しかし、彼らがわたしに偽の入門証を手渡すと、わたしはその入門証を炎の中に放り込むのだ。そして、人々は自分たちの『必死の努力』が炎の中にあるのを見て、希望を失う。人々は神の国の美しい景色を見ても、中に入れないので、顔を覆って泣くのだ。それでも、わたしは哀れな状態の彼らを中に入れない。誰が好き勝手にわたしの計画を台無しにできようか。未来の祝福は人々の熱意と引き換えに与えられるのか。人間の存在の意味は、人間の好きなようにわたしの国に入ることにあるのか。……わたしが人間を信じなくなってから、かなりの時が経つ。わたしが人々に希望を見いだせなくなってから、かなりの時が経つ。というのは、人々に大志がないからだ。神を愛する心を人々がわたしにくれたことが一度もないからだ。その代り、人々はいつもわたしに自分の意欲を伝えてきた。わたしは人間に多くを語ってきたが、未だに人々はわたしの助言を無視している。だから将来わたしの心を誤解しないように、わたしは人々にわたしの見解を伝えよう。今後人々の生死は、人々の問題である。わたしにはどうすることもできない。人々は自分で生き残りの道を見つけてほしい。わたしはこれに関して無力である」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第四十六章」)。「人々が自らの命を犠牲にする覚悟がある時、全てがささいなものとなり、彼らをしのぐ者はいなくなる。命よりも大切なものがあろうか。だから、サタンは人の中でこれ以上何も行なえず、人に対して何もできなくなる。『肉体』の定義では、サタンによって堕落させられているものとあるが、人々が自分自身を真になげうち、サタンに振り回されることがないなら、誰も彼らを打ち負かすことはできない。そのとき、肉体は別の機能を果たし、正式に神の霊の導きを受け始める。これは必要な過程であり、段階的に進まなくてはならない。そうでなければ、神が人間の頑なな肉に対して働く術はない。神の知恵はそのようなものである」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」「第三十六章」)。神の御言葉をじっくりと考えて、私はとても困惑した。ネガティブに考え、苦しみを感じていたのは、死を恐れ、祝福を過剰に求めていたからではないか? 最初の頃は、祝福を受け、天国に入るために、神を信じていた。効力者の試練を経験したけれど、そして、祝福への欲を少し捨てられ、神へ奉仕をすることを決心したけれど、不実で邪悪なサタンの本性が深く根ざしてた。神が私たちを神の民にすると、私の胸はまた期待に高鳴った。今回は、確かに天国に入れるだろうと思った。神の御名を受け入れること、神に引き上げられること、神の国の民の1人となること、全てを諦めて自分を費やすことによって、もちろん天国に入れるだろうと思った。確実に。神のなせる働きが私の観念を打ち砕き、私の期待と終着点を奪った時、私は弱って否定的になり、神に文句を言った。神のために払った犠牲さえ後悔した。全ての努力によって、見返りとして、天国の祝福を受けられると思っていた。私は、神と取引をしていたのではないか? 神をだまし、神を利用していたのではないか? 私があらわにしたのは、全ての試練への反抗と不平以外の何ものでもない。神に従いたかったが、できなかった。よく理解していたはずの真理を実践できなかった。私は本性では神に抵抗していた、サタンと同じだったのだ、と悟った。サタン的性質で満ちた私のようなものは、死んで滅びるべきだ。神の国に入るには、全く相応しくなかった。これは、神の義の性質によって定められていた。神に従い、神の義の性質を知る機会を得たことは、私の人生は無駄ではなかったということを意味していた。それから私は神に祈った。「これ以上、自分の肉のために生きたくはありません。神の支配と采配に服従したいと思います。私の最期がどうなろうと、たとえ死のうと、私は神の義を賛美します」自分の最期と終着点を考えるのをやめた時、神の采配に、自分の命をかけてでも従うことを望んだ時、素晴らしい解放の感覚を味わった。

 しかしその時は、私たちが自分の結末を顧みずに服従し、神に従うことができても、追うべき目標を持っていなかった。しかし、1992年5月に、神はさらに御言葉を表された。生きているうちに神を愛し、意味のある人生を生きることを求めるようにとおっしゃられた。神は私たちを神を愛する時代に導かれ、死の試練は終わった。神の御言葉を読むこと、集会と交わりを通してわかった。人間の運命は神の御手に委ねられていて、誰も死を逃れられないけれど、神の御旨は、私たちが死に否定的に立ち向かうことではない。神は、私たちが生きている間に神を愛するようになること、真理を実践できるようになり、堕落した性質を捨て去り、完全に救われることをお望みなのだ。その時にこそ私たちは神の国に入れるようになるのだ。やっと理解ができた。死の試練に導くことで、神は私たちを死に導いているのではなく、神の義の性質をあらわにされている。神がこれを行うのは、神が救うのは誰か、滅ぼすのは誰か、神の国に入るのにふさわしいのは誰かを、私たちに知らしめるためだ。私はまた、自分がどれだけサタンによって堕落させられているかを知り、自分の観念、想像、祝福への欲を捨て去ることができた。神の支配と采配に服従できるようになり、真理を本当の意味で実践し始めた。これは神の、私に対する救いだ! 神は、私たちを憎んでいるとか苦しめたいという理由で、裁いたり、罰したりはしない。かわりに、私たちが真理を求め救われるための正しい道へ導いてくれるのだということがさらによくわかった。神が私たちに行う全てのことは、事実の出現によるものではない。神は、私たちを裁き、罰し、試し、精錬する御言葉をあらわすことで結果を得ておられる。神のなせる働きはとても思慮深く、神の人間に対する愛と救いは本物である!

# by AlmightyGodMy | 2020-12-29 20:00 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

全能神は主イエスの再臨である。全能神の世の終わりのお働きを考察して全能神の足跡につき従います。


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